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第3章 日露戦争

(「近代日本の七つの戦争」の「維新戦争」の文章です。この文章は約2週間ごとに変わっていきます。実際の書籍の文章は縦書きで、読みの難しいと思われる漢字には、ふりがなをふってあります)

当時、世界一の陸軍大国といわれたロシアに対して、東洋の小国・日本はひとたまりもあるまいと思われていました。しかし、大方の予想を裏切って、日本は勝利します。激戦の末に勝ち取った二〇三高地、連合艦隊がバルチック艦隊を撃破した日本海海戦などを経ての勝利でした。勝利に日本国内は沸き立ち、世界は驚愕します。欧米は日本への警戒心を強め、植民地支配に苦しんでいた多くのアジア諸国は自分たちにも希望があると感じました。

日本のみならず、世界へも大きな影響を与えた日露戦争。この戦争は一体どのようものだったのでしょう?
今回は、日露戦争の政治的戦いであった 第5節 ポーツマス条約です。どうぞ、御覧ください。

  第5節 ポーツマス条約

 1 講和への下準備

  戦争終結のチャンス
 旅順占領、奉天占領など、機会あるごとに日本は密かに講和を希望していたのだが、こちらから積極的に働きかけるわけにもいかず、講和は実現しないままだった。満州からロシアを追い出したいと考えるアメリカ合衆国セオドア・ローズヴェルト大統領をはじめ、列強各国も講和を望み、ロシアに勧告していたが、ロシア皇帝ニコライ二世はかたくなに勧告を拒んでいた。ニコライ二世はバルチック艦隊の勝利を信じて疑わなかったのだ。

 しかし、バルチック艦隊は日本海軍に惨敗した。ニコライ二世の考えにも変化が表れるはずだと日本政府は期待した。今が講和の絶好の機会だったのだ。

 日本海海戦直後の五月三十一日、小村寿太郎外相は高平小五郎駐米公使を通じてローズヴェルト大統領に講和の斡旋を依頼した。ただし、日本からの依頼ということは極秘にして欲しいとも付け加えた。日本の勝利を望むローズヴェルト大統領は日本の状況を察して了解したが、賠償金は望まない方がよいと忠告した。

 ローズヴェルトはさっそくカシニー駐米ロシア大使にも面会して講和を勧め、若干の賠償金と領土の割譲はやむを得まいと忠告した。これは日露の講和成立をめざすローズヴェルトの駆け引きだった。だが、カシニー大使はローズヴェルト大統領の言葉に一応の関心は示したものの、講和に対しては激しく抵抗した。カシニーは根本的に対日強硬派であり、説得するのは難しかった。

 しかし、六月三日、事態は好転した。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世がローズヴェルト大統領に、日露の講和を援助したいという意思を伝えてきたのだ。さらに、ヴィルヘルム二世が自らニコライ二世に「ローズヴェルト大統領を信頼して講和を受け入れるように勧めた」という情報も入った。

 そこでローズヴェルトはカシニーに見切りをつけ、メイヤー駐露アメリカ大使を通じてロシア皇帝に直接働きかけることにした。ニコライ二世は極秘でローズヴェルトからの講和の勧告を受け入れた。

 日露両国とも講和全権委員の選出にかかったが、人選はかなり紛糾した。当初からこの交渉は非常な難航が予想されたのだ。日本では親露派の伊藤博文が推薦されたが辞退し、ロシアでも何人かが健康上の理由などから辞退している。結局、日本側は小村寿太郎外相と高平小五郎駐米公使が任命され、ロシア側は前蔵相で当時閑職にまわされていたヴィッテと前駐日公使でカシニーの後任として駐米大使を務めていたローゼンが選出された。

 また、講和会議の場所については、当初、日本が中国山東省の芝罘を、ロシアがパリを希望していたが、結局、日本側の第二希望が通り、アメリカの首都ワシントンと決められた。ところが、ワシントンの夏は猛暑であるという理由で、気候の温和な、しかも警備の目が届きやすいポーツマス軍港(ボストン北方約百キロ)が最終的に選ばれた。

  樺太占領
 日本はポーツマス講和会議を有利に進めるために最後の武力行動を起こした。樺太(ロシア名はサハリン、当時はサガレンとも呼ばれた)を占領しようという意見は、以前から参謀次長の長岡外史少将らが主張していたが、山県有朋参謀総長、寺内正毅陸相、山本権兵衛海相らは反対していた。陸軍上層部は現在の陸軍の兵力にまったくゆとりがないために反対し、海軍は来たるべきバルチック艦隊との戦闘に集中するために反対したのだ。

 しかし、奉天占領後、できるだけ有利な講和条件を結ぶためにはロシアの領土を占領しておくのが望ましいという考えが有力になってきた。そこで、長岡次長は、師と仰ぐ満州軍総参謀長の児玉源太郎大将に上京を促し、樺太占領の正当性を会議で発言してもらっている。児玉大将の発言となれば、山県参謀総長も寺内陸相も聞かないわけにはいかなかった。

 さらに、日本海海戦の連合艦隊の勝利により、海軍にも樺太攻略に反対する理由がなくなった。加えて、ローズヴェルト大統領も「早期講和実現のために日本軍は樺太を占領すべきだ」と、アメリカに派遣されてアメリカ世論を親日的にするために宣伝活動を行なっていた金子堅太郎特使(ハーバード大学でローズヴェルト大統領の同窓生でもあった)に勧告している。そして、ローズヴェルトが日本軍の樺太占領を支持していると、金子特使を通じて知った小村外相は、長岡次長に積極的に賛成するようになった。六月十七日、紆余曲折はあったものの樺太進攻作戦は正式に決定された。

 七月九日、樺太攻略のために新設された第十三師団の先遣部隊が、樺太南端のコルサコフ(大泊)に上陸し、当地を占領した。二十四日、第十三師団主力が樺太北部に上陸、二十七日にアレクサンドロフスクを占領すると、三十日にはロシア樺太守備軍は降伏した。ロシア樺太守備軍は寄せ集めの弱小部隊であり、日本軍はわずか三週間で、楽々と樺太全島を占領した。

  第二次日英同盟と桂・タフト協定

 日本はロシアと戦争をしながら、講和の斡旋をローズヴェルト大統領に頼み、他方でイギリスと日英同盟の改訂交渉を進め、さらに、アメリカとも協定交渉を進めていた。

 日英同盟の改訂条約案は日本海海戦の前日五月二十六日、日本政府からイギリス政府に渡された。条約改訂には日本もイギリスも熱心だった。これまでの日英同盟では「日英いずれかが戦争を起こしたとき、他方は中立を守る。第三国が敵国に味方して、日英いずれかに参戦してきた場合は、他方も参戦する」というものであったが、改訂案は「日英いずれかが戦争を起こした場合には、他方は味方し参戦する」という、一層強力なものになっていた。

 これは日英両国が戦後のロシアの動きを警戒していたことの表れだった。日本はロシア海軍の増強とロシアの報復を恐れ、再び戦争になった場合には強力なイギリス海軍を頼りにしたかった。イギリスはロシアが極東をあきらめた後はインドを狙うと予測し、その南下を牽制するために日本陸軍の援助をあてにしようとしていた。また、日本としては日露戦争後、世界の世論がロシアに同情的になって、日本が孤立するのを防ぎたいという思惑もあったのだ。

 さらに、もうひとつ条約改訂の大きな目的は、日本による韓国の保護国化をイギリスに認めさせることだった。しかし、イギリスは、韓国保護国化は日本と列強とのトラブルを引き起こす可能性が高いと考えていたため、紛争に巻き込まれるのを懸念して、保護国化承認には難色を示した。しかし、日本はポーツマス条約において、ロシアに韓国保護国化を認めさせなければならず、そのためにはなんとしてもイギリスにあらかじめ保護国化を承認させておく必要があったのだ。そこで日本側は「日本が他の列強と韓国問題についてトラブルを起こしても、決してイギリスに助けを求めない」と約束した。イギリスはようやく納得し、一九〇五(明治三十八)年八月十二日、ロンドンで第二次日英同盟が調印された。

 一方、アメリカとの間には桂・タフト協定の交渉が進められていた。この協定の名称は桂太郎首相とアメリカのタフト陸軍長官にちなんだものである。七月二十七日、桂首相とタフト長官は東京で会談し、「アメリカがフィリピンを植民地とすることを日本政府は認め、そのかわり、日本が韓国を保護国とすることをアメリカ政府が認める」という協定を結んだ。

 第二次日英同盟と桂・タフト協定の成立により、日本はポーツマスでの講和会議に先立って、イギリスとアメリカに韓国の保護国化を承認させることに成功した。これでロシアに対して韓国問題では強気で交渉できることになったのだ。

 この時期の日本政府は実に抜け目なく、さまざまな事前工作を行なった。これは日清戦争直後の三国干渉(2-50ページ参照)の苦い経験を生かしたものだった。戦争を有利な条件で終結させ、しかも領土を拡大するためには、世界の勢力バランスを考える必要があることを日本は悟り、巧みな外交能力を身につけたのだ。それに対し、ロシア政府は何も動いていなかった。ロシアは戦争準備においても、外交工作においても、常に準備不足だった。だが、反面からみれば、これほど周到に工作をしなければならないほど、日本の事情はせっぱ詰まっていたのだ。日本にはまったくゆとりはなく、これ以上の戦争は不可能だったのだから。

 2 火花を散らす交渉

 三種類の講和条件
 ポーツマス講和条約に備えて日本政府が用意した講和条件は三種類に分けられた。一つめは「絶対的必要条件」というもので、内容は以下の通りだった。

 ・ロシアは日本による韓国の保護権を承認する。
 ・ロシア軍は満州から撤退する。
 ・ロシアは日本に遼東半島の租借権を譲渡する。
 ・ロシアは日本に東清鉄道を割譲する。

 これは日本がどんなことがあっても獲得しなければならないものだった。

 二つめは「比較的必要条件」というもので、内容は以下の通りだった。

 ・ロシアは日本に賠償金を支払う。
 ・ロシアは日本に樺太を割譲する。
 ・日本海海戦において中立港に逃げ込んだロシア艦艇を日本に引き渡す。
 ・ロシアは沿海州沿岸における日本の漁業権を承認する。

 これはできるだけ獲得したいが、もし不可能であれば譲歩してもよいものだった。

 三つめは追加作成された「付加条件」で、内容は以下の通りだった。

 ・極東におけるロシアの海軍力を制限する。
 ・軍港ウラジオストクを商港化する。

 この条件は駆け引きのために、小村全権の裁量により提示してもよいとされたもので、獲得しなければいけないものではなかった。

 小村全権、ポーツマスへ

 一九〇五(明治三十八)年七月八日、新橋駅は小村寿太郎日本全権らを見送る官僚や国民で沸き返っていた。多額の賠償金や広大な領土の割譲に期待を膨らませる国民は、日の丸の小旗を振り、歓声を上げていた。「ハルビンをとれ、ウラジオストクを占領しろ、バイカル湖まで進撃しろ」と新聞はあおりたて、国民は熱狂していたのだ。横浜港でも花火を打ち上げて、出港する「ミネソタ」号を祝福した。その祝福の音を聞いて、実情を知っている政府・軍部の要人たちは複雑な心境だったに違いない。

 出港から一か月後の八月十日、ポーツマス軍港の海軍工廠の一室で講和会議が開始された。小村寿太郎日本全権は、十二か条からなる講和条件をヴィッテロシア全権に渡した。

 この十二か条の内訳は「絶対的必要条件」の四か条、「比較的必要条件」の四か条、「付加条件」の一か条(「軍港ウラジオストクの商港化」は提示されなかった)、その他の条件の三か条であった。その他の三か条とは

 ・日本は清国に租借地以外の領土を返還する。

 ・日露両国は満州の都市・港湾の開放に協力する。
 ・日露両国は満州の鉄道を軍事目的に使用しない。

 というもので、交渉においてはとくに問題のないものだった。

  「絶対的必要条件」の獲得

 八月十二日、日本側が提示した各条件についての本格的な審議が始まった。「絶対的必要条件」の交渉は比較的順調に進んだ。日本にとって最重要であった「韓国の保護権の承認」については、ヴィッテ全権は「この条件を承認することは韓国という独立国を滅ぼすことではないか。また、このようなことを行なえば、日本は列強から強く批難されるだろう」と反対した。しかし、既にイギリスとアメリカに韓国保護国化の承認をとりつけてある日本は強気だった。「もし、批難されたとしても、それは日本と列強の問題であり、ロシアの問題ではない」と小村全権は言い切り、結局、ヴィッテは妥協した。

 その後、他の三つの「絶対的必要条件」である「ロシア軍の満州からの撤退」「遼東半島の租借権の譲渡」「東清鉄道の割譲」についても交渉が行なわれ、大筋で日本側の主張をロシア側は承認した。

 「ロシア軍の満州からの撤退」により、満州におけるロシアの利益独占が廃除され、門戸開放、機会均等主義が保障されることになった。これは満州での権益を狙うイギリス、アメリカが希望していたことであった。日本はこの保障を行なうことで、英米を満足させようとしたのだ。

 また、「東清鉄道の割譲」の問題では、結局、東清鉄道の長春・旅順間、長春以南の鉄道敷設権、鉄道沿線の炭坑利権の日本への譲渡が決定された。翌一九〇六(明治三十九)年に設立される南満州鉄道株式会社(満鉄)は、この長春・旅順間の東清鉄道を母体にしたものだった。

 日本は「絶対的必要条件」の獲得には成功した。

  一ルーブル、一インチたりとも与えるな

 審議の議題が「比較的必要条件」に入ると交渉は難航した。八月十五日には「樺太の割譲」問題が審議されたが、ヴィッテは「領土の割譲は決定的な敗戦国が行なうことであり、割譲はロシア帝国の威信にかけても承認できない」と強硬な態度を示した。

 小村は「割譲は決してロシアの威信を損なうものではない」と主張したが、ヴィッテは「樺太は一八七五(明治八)年の『千島・樺太交換条約』(1-65ページ参照)以来、合法的にロシアに所属するものだ」と反論した。対して小村は「合法的とはいっても、なかばロシアに脅迫されて結んだ条約であり、日本国民は侵略と感じている。国民の樺太への愛着は深い」と応戦した。小村、ヴィッテ両者の主張はまるで折り合わなかった。

 結局、「比較的必要条件」の中でヴィッテが承認したものは「沿海州沿岸における日本の漁業権の承認」だけで、「樺太の割譲」「賠償金の支払い」「ロシア艦艇の引き渡し」に関しては強硬に拒絶した。また、「付加条件」の「極東のロシア海軍の制限」も拒絶している。

 小村全権は「ロシア側が『賠償金の支払い』と『樺太の割譲』に応じれば、『ロシア艦艇の引き渡し』と『極東のロシア海軍の制限』については撤回する用意がある」ともちかけた。だが、ヴィッテ全権は「そのようなことをするくらいなら、戦争継続の方がよい」と、反対に小村におどしをかけた。

 ともかくヴィッテは強気だった。というのも、ロシア皇帝ニコライ二世が非常な強硬派であり、「一ルーブルの賠償金も、一インチの領土も与えてはならぬ」とヴィッテに厳命していたのだ。しかし、本来は非戦派であるヴィッテは小村に強硬な態度を示しつつも、八月十七日、ニコライ二世に「日本に樺太を譲渡し講和を成立させるべきではないか」とほのめかしている。だが、皇帝はかたくなに拒絶した。

 小村全権はロシア側の態度から察し、交渉決裂の可能性が大きいことを日本政府に打電した。

  樺太分割案
 小村全権もヴィッテ全権も、本心は講和を強く望んでいた。両国とも戦争を続けられる状態ではなかったのだ。日本軍は二十万名の死傷者を出し、日本政府は予想をはるかに上まわる二十億円にものぼる莫大な戦費を費やし、さらに、その戦費の負担は国民に増税という形でのしかかっていた。

 一方のロシアも戦争での莫大な損害に加え、革命の機運が一層高まっていた。プレーヴェ内相をはじめ幾人もの政府要人が暗殺され、「戦艦ポチョムキンの反乱」など軍隊内における兵士の離反行動もみられた。ロシアは国家崩壊の危機を迎えていたのだ。実情は日本もロシアもボロボロだった。

 小村とヴィッテは秘密会談という形で、個人的な意見の交換も行ない、交渉成立への道を懸命に模索した。八月十八日の秘密会談において、ヴィッテはあくまで個人的見解とした上で、「樺太分割案」を提案してきた。「北緯五十度以北をロシア領、五十度以南を日本領としてはどうか」という案だった。

 小村は「日本軍が占領中の樺太をロシアに返すのだから、相応の代償が必要であり、十二億円は支払ってもらいたい」と回答した。しかし一方では、この提案が賠償金と樺太割譲の問題を一挙に解決する可能性があると期待して、日本政府に連絡している。日本政府も樺太分割案を喜んで承認した。

 ローズヴェルト大統領もニコライ二世に、樺太分割案を受け入れるようにと勧告した。しかし、ニコライ二世はあいかわらずかたくなだった。ニコライ二世の拒絶後、ローズヴェルトは金子特使に「日本は一切の金銭的要求を放棄すべきだ」と警告した。

  いよいよ決裂か?
 ロシアは極東に続々と大量の軍隊を送り込んでいた。北部満州には八十万という圧倒的兵力のロシア軍が集結し、二十万あまりの奉天の日本軍に対峙していた。そして、八月二十二日、ロシア政府はついにヴィッテ全権に交渉の打ち切りを指示した。

 翌八月二十三日の会議において、小村全権は南樺太の割譲と北緯五十度以北の樺太返還の代償金十二億円を要求した。ヴィッテ全権は「代償金とは賠償金と何ら変わるところがない」と反論した。そして、「仮にロシアが北樺太も放棄すれば、金銭的要求を日本は放棄するか」と尋ねてきた。

 ヴィッテには策があった。ここで小村が「金銭的要求は放棄できない」と答えた場合、交渉決裂の原因を日本側に押し付けようともくろんだのだ。ヴィッテは「日本が賠償金に固執するため、和平交渉が決裂した」と世界世論に訴えるつもりだった。

 果たして、小村は「金銭的要求を完全に放棄するのは不可能だ。賠償と領土割譲は両方とも絶対に必要である」とヴィッテの提案を拒否した。ここに交渉決裂は決定的となり、ヴィッテは西洋の新聞などに情報を流し、世界世論はヴィッテの思惑通り「日本は金のために戦争をしている」と日本を批難した。

 ヴィッテはホテルの精算や帰路の船舶の手配を始めた。小村も「残された道は戦争継続のみ」という旨の電報を桂首相に送り、引き上げ準備を始めた。

 3 無賠償の講和条約

  瀬戸際の交渉成立
 小村全権の報告を受けた日本政府は、八月二十八日、戦争継続は可能かどうかについて協議を行なった。北部満州に続々と集結しているロシア軍に対抗するためには、日本も数個師団の増設が必要であり、しかも、莫大な軍事費も必要とされた。日本には軍事的にも経済的にも余裕はなかった。つまり、これ以上の戦争の継続は絶対に不可能だったのだ。

 二十八日の夜、日本政府は小村全権に「金銭的、領土的要求をすべて放棄しても講和を結ぶべきである」と打電した。小村は無賠償と不割譲を覚悟して、翌二十九日の最終会議にのぞむ決意を固めた。

 だが、翌朝、会議直前に日本政府から「南樺太の割譲はやはり要求するように」という指示があった。ローズヴェルト大統領がニコライ二世に行なっていた説得が成功し、ロシア皇帝が南樺太の割譲を認めたのだ。この情報がイギリス政府から日本政府に知らされ、急遽、小村全権のもとに通告されてきたのだった。

 最終会議が始まった。ヴィッテ全権はロシア側の最終回答案を示した。そこには「一切の金銭の支払いは拒絶するが、南樺太の割譲は承認する」と明記されていた。小村全権は「金銭の支払いのない場合は、樺太全島の譲渡を要求する」ともう一度押してみたが、ヴィッテは拒絶した。小村はここが潮時と判断し、ロシア側の回答案を認めた。ここに交渉が成立し、日露戦争は終わった。

 九月一日、日露両国は休戦議定書に調印、五日、講和条約に調印し、「日露両軍の満州撤兵は条約批准(十月十五日)から十八か月以内に完了すること」「東清鉄道の守備隊の配置は、日露両国軍とも一キロメートルにつき十五名以内にすること」を約束した。

  交渉は成功なのか、失敗なのか?
 ヴィッテ全権は交渉が成立して会場から出たとき「日本は全部譲歩した!」と喜んで叫んだといわれる。ヴィッテは、南樺太の割譲という最小限度の損失で、目標であった無賠償講和の条約締結を成功させたのだ。しかし、ロシアの敗戦という事実はロシア民衆の皇帝への反感をつのらせ、反政府運動をますます活発化させた。戦争の敗北はロシア帝国の崩壊の一大原因となったのだ。

 一方、日本は当初の戦争目的をほぼ達成した。「絶対的必要条件」のすべて、つまり「韓国の保護権の承認」「ロシア軍の満州からの撤退」「遼東半島の租借権の譲渡」「東清鉄道の割譲」を獲得した。さらに、「比較的必要条件」のうち「沿海州沿岸における日本の漁業権の承認」「樺太の割譲」(南半分ではあったが)をロシアに認めさせた。日本の国力からして、それは上出来といってもよいくらいだった。しかし、ポーツマス条約の内容は戦勝国日本の国民にとっては、はなはだ物足りない内容であった。

  日比谷焼き打ち事件
 多額の賠償金と広大な領土の割譲を期待していた日本国民はポーツマス条約の結果に怒った。国民は戦勝後の見返りを楽しみに、戦争中の圧迫に耐えてきたのだ。それが何の見返りもないと知って激昂した。国民は戦争の逼迫した状況を何も知らされていなかったため、連戦連勝の結果がどうして一銭の賠償金も取れない条約締結になるのかわからなかった。

 条約調印当日の九月五日、対露強硬派による講和条約反対の呼びかけにより日比谷公園に集まった民衆は、小村全権をロシアのスパイと罵倒し、怒りを爆発させ暴徒と化し、新聞社、政府官邸をつぎつぎと襲撃、さらに、日比谷交番をはじめとした多くの交番を焼き払った。五日の講和条約反対集会は東京だけでなく、全国の都市においても開かれていて、日本国民の不満の高ぶりを物語っていた。

 十月十六日、小村寿太郎ら日本全権団一行は横浜港に到着した。横浜港のようすは、歓呼の嵐だった七月の見送りとはまるで違っていて、小村を出迎えたのは彼の長男ただ一人きりだった。

  日本の勝利はロシア革命の落とし子
 日露戦争における両国の損害は莫大だった。数値には諸説あるが、戦死・戦病死者数は日本軍約十二万名、ロシア軍約十一万五千名、戦費は日本約二十一億円(当時の国家予算の七年分以上)、ロシア約二十二億円にのぼった。

 この数値からみてもわかるように、日本の勝利は辛勝だった。しかし、それでも日本の陸海軍はポイントとなる戦闘においてすべて勝利しているし、日本軍の兵士たちも勇敢だった。それに対して、ロシア軍の指揮官には判断ミスが多く、また、バルチック艦隊の海兵などのレベルも低かった。さらに、日本の政治家たちは巧みな外交戦術や交渉を行ない、日本を勝利に導いた。加えて、日本国民も世論も戦争を支持した。このように、日本は軍と政治家と国民がひとつになって、勝利を勝ち取ったといってもよかった。

 だが、勝因はそれだけではなかった。最大の勝因にはロシアで起こっていた革命の影響があげられる。疲弊したロシア帝国に抑圧された貧しい民衆たちは革命に立ち上がった。するとロシア帝国は民衆を弾圧した。それに対し民衆はますます反発を強め、国家はいよいよ疲弊していった。さらに民衆の戦争反対、そして、日露戦争の舞台極東と革命の舞台ヨーロッパロシアという二方面へのロシア軍兵力の分散、兵士の士気の低下、これらのことが複雑に絡みあい、日露戦争の勝敗に重大な影響を及ぼしたのだ。

 もし、ロシアで革命が起こっていなかったなら、日露戦争の結果は違ったものになったかもしれない。まさに「日本の勝利はロシア革命の落とし子」だったのだ。

 次回は「日露戦争後」などを掲載します。お楽しみに!

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