第六章 日中戦争

(「近代日本の七つの戦争」の「日中戦争」の序文です。実際の書籍の文章は縦書きで、読みの難しいと思われる漢字には、ふりがなをふってあります)

第1節 序

 れほどたくさんの呼び方をされる戦争はない。はじめは北支事変と呼ばれ、戦争が全面的になっていくと支那事変に変わった。第二次世界大戦後、支那という言葉が使われなくなると日華事変という名称が登場した。一九七二(昭和四十七)年九月に中華人民共和国と国交が結ばれた後は、日華事変は使われなくなり、日中戦争が主流となった。

 また、満州事変と日中戦争をひとつのものとしてとらえて、日中十五年戦争と呼ぶ場合もある。その場合、盧溝橋事件以降の戦いを日中全面戦争ということがある。さらに、最近はアメリカやイギリスとの太平洋戦争とあわせて、アジア太平洋戦争と呼ぶ場合もある。

 戦争時のスローガンも戦争途中から変わった。当初は「暴支膺懲」が使われた。これは「乱暴で道理にもとる中国(支那)を懲らしめて、反省させる」という意味だった。ところが、翌年には「東亜新秩序」がうたわれた。これは日本、満州、中国が互いに助け合って発展していくことが必要だと説いたものだった。懲らしめることから、助け合うことにスローガンは百八十度変わったのだ。

 日中戦争には曖昧なところが多い。戦争の直接の引き金となった盧溝橋事件でも、日本軍と中国軍のどちらが先に発砲したのか、真相はいまだにわかっていない。そして、戦闘が始まってからも、日本政府や陸軍中央部は戦争の不拡大方針をしきりに唱えたが、それにもかかわらず戦争は拡大していった。また、何回か停戦のチャンスがありながら、結局は停戦できなかった。そして、宣戦布告なしで、つまり正式な「戦争」ではなく、「事変」のままで全面的な戦闘に突入していったのだ。

 日中戦争は八年以上も続き、近代日本の行なった戦争の中では最も長い。しかし、一般の日本人の日中戦争の意識は薄い。日本人の意識では、この当時の戦争というと、もっぱらアメリカの印象が強いのだ。だが、日米戦争のそもそもの原因は日中戦争だ。日米開戦のぎりぎりまで、日本とアメリカは日中問題の交渉を行なっていた。そして、その交渉が成立しなかったため、太平洋戦争が始まったのだ。

 当時、日本は中国の資源をぜひとも手に入れたいと考えていた。そのためには中国を意のままに動かすことが必要だった。しかし、蒋介石率いる中国国民政府は意のままにならない。そこで、日本は中国に大兵力を投入し、広大な範囲で戦いが始まった。しかし、戦闘は展望が開けない泥沼状態となっていった。中国(旧満州を除く)に投入された日本陸軍の総兵力は、百四十四万名あまりにもなる。そして、約四十万名の日本兵が中国の大地に消えていった。一方、中国側は約百万名の兵士と一千万名以上の一般人が犠牲になったといわれている。

 なぜ、このような悲劇が生まれたのか? 日本政府や軍中央部が不拡大を主張しながらも、なぜ、戦争が拡大してしまったのか? そして、日本軍は中国軍に対して、個々の戦闘では連戦連勝であったにもかかわらず、最終的にはどうして勝てなかったのか? 結局、この戦争は日中両国に何をもたらしたのか?

 この章では、まず日中戦争の時代背景である満州事変にまでさかのぼり、次に盧溝橋事件に至るまでの日中関係を考え、そしてその後、実際の戦闘と情勢の変化についてみていきたい。

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