第五章 満州事変

(「近代日本の七つの戦争」の「満州事変」の序文です。実際の書籍の文章は縦書きで、読みの難しいと思われる漢字には、ふりがなをふってあります)

第1節 序

 在の中国には満州という地名はない。この地方は中国東北部と呼ばれている。日本の地図帳を見ても、どこにも満州という地名はない。しかし、多くの日本人が満州という名前を知っている。聞いたことがあるどころか、住んでいた人も大勢いる。そして、多くの中国人も満州という名前を知っている。だが、中国でこの言葉が使われることは少ない。使われる場合には「満州国」が日本の傀儡国家だったという意味を込めて「偽満」と呼ばれる。なお、ヨーロッパでもこの地方をマンチューリア Manchuria と呼ぶ場合がある。しかし、この満州という名前はいつ頃、どのようにしてできたのだろうか?

 満州という名前の由来は、十七世紀前半にまでさかのぼる。建州、海西、野人の三つに別れていた女真(女直)族が、清王朝初代皇帝となるヌルハチによって統一され、一六一六年、後金という国が成立した。その頃、ヌルハチによって、女真族の代わりに満州族という民族名が使われるようになったという。民族名が満州族となったことにより、この地方も満州と呼ばれるようになったようだ。なお、後金は明王朝の滅亡後、清王朝となり、一九一一年の辛亥革命で倒されるまで中国に君臨することになる。

 古来より満州は紛争の地であった。中国戦国時代の粛慎、その後の高句麗、渤海、契丹、そして女真族の金、後金などがこの地に起こり、歴代の漢民族王朝と紛争を続けた。近代になると、ロシアが清国に侵入し沿海州を奪った。そして、日本も侵入を開始した。日本は満州事変という大謀略をめぐらし、「満州国」という国家まで建設してしまうのだ。

 この紛争の続く不安定な地域は近代以降、漢民族、満州族、朝鮮族、モンゴル族などの従来の諸民族間の対立に加えて、ロシアをはじめとする西洋列強や日本の利害も絡み、さらに渾沌とした地域になったのだ。この地域は「東洋のバルカン(バルカン半島は諸民族が入り乱れ、紛争が絶えなかった)」「極東の弾薬庫」などと西洋では形容されるようになった。

 満州事変により満州国が成立してからも、多くの抗日ゲリラが出没し、満州の治安は安定しなかった。だが、反面、満州国が経済や産業の面で、とくに道路、鉄道、建物、工場、港湾などの建設・整備の面で、めざましい発展を遂げたのも事実である。さらに、満州国を理想的な国家にしようという崇高な理念を抱いていた日本人がいたことも事実である。とはいっても、所詮、満州国は傀儡国家だった。第二次世界大戦の日本の敗北と同時に満州国は消滅した。

 しかし、なぜ、日本がこの地にこんなにもかかわりをもって、国家をつくるまでに至ったのか? 日本と満州の出会いは何だったのか? そして、なぜ、多くの日本兵が満州に行き、この土地で機関銃を撃ち、大地を赤く染めたのか? 満州国とはいったいどのような国家だったのか? そして「五族協和」をスローガンとしたこの新興国家で、日本人と他の民族ははたして協和していたのか?

 この章では、まず日本が満州を意識するようになったきっかけと、当時の日本と中国の時代背景を考え、続いて関東軍の謀略、事変の勃発、満州国の建国、そして、その後、日本が世界で孤立する姿を追い、広い意味での満州事変をみていきたいと思う。

 満州事変は日本とアメリカの戦いの導火線でもあったので、満州事変を知るということは、太平洋戦争を理解する糸口にもなるはずである。

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